• 2026年10月16日
  • 2026年10月18日

精神科医は心を病まない?

「先生は、毎日患者さんの苦しい話や重い悩みばかり聞いていて、心を病んでしまわないんですか?」

患者さんや周囲の方、あるいは日常のふとした雑談の中で、よくこんな質問をいただくことがあります。

たしかに、診察室で交わされる言葉の多くは、苦しみや絶望、理不尽な状況といった非常に強いエネルギーを持っています。ですが、私は患者さんの話に自分が引っ張られることはありません。

日常的に重いお話を聞き続けながらも自分を保っていられるのには、プロとしての「思考の工夫」や「見通し」、そして「分かち合い」や「プライベートでのリセット法」があるからです。

今回は、精神科医が感情に飲み込まれない理由と、人の話に心を振り回されないためのコツ、そして私自身が日常で行っているセルフケアについてご紹介します。

精神科医が「感情に飲み込まれない」5つの理由


1. 「仕事」という明確な境界線とフレームワーク

診察室という空間、そして決められた時間という「枠組み」が存在すること自体が、第一の安全装置になっています。目の前の患者さんの苦痛に耳を傾けつつも、自分のプライベートや個人的な感情とはしっかりと境界線を引いています。

2. 共感しながらも、頭は「分析」でフル回転している

私たちは患者さんのお話を聞くとき、ただ感情移入して一緒に悲しんだり怒ったりしているわけではありません。 相手の辛さに寄り添う「共感」をベースに持ちながらも、頭の中では同時に次のような思考がフル回転しています。

  • 「どのような背景や症状の構造があるのか」
  • 「どの診断基準や治療アプローチが適切か」
  • 「過去のケースから見て、どんな回復のプロセスを描けるか」

傾聴しながらも高度な情報収集と分析を続けているため、脳のエネルギーは「感情の揺さぶり」ではなく「認知的処理」に注がれます。その結果、感情の波に飲み込まれずに済むのです。

3. 「回復のプロセス」を知っている

今どんなに暗闇の中にいるように見えても、「適切な治療や時間によって人は回復していく」というケースを何度も見てきた経験があります。「今は一番苦しい時期だが、このプロセスを経れば波はひいていく」という見通しがあるからこそ、一緒に絶望の底に沈むことなく、穏やかに伴走し続けることができます。

4. 仲間と共有し、一人で抱え込まない

学会や勉強会などで症例検討の場をもつことは、「一人で背負い込まなくていい」という安心感も、心が潰れないための大切な安全装置です。

5.自分を地に足着け直す「アンカー(錨)」を持つ

「アンカー(錨)」とは、どれだけ感情の波に揺さぶられても、一瞬で『素の自分』『安全な現実』へと心を繋ぎ止め、引き戻してくれる存在や習慣のことです。

診察室で重いお話を聞いているとき、医師の頭や心は「言葉」や「他者の強い感情」という目に見えない抽象的な世界に深く潜り込んでいます。

だからこそ、臨床が終わった後に「現実の世界」「自分だけの世界」へと一気に浮上するための「重し(錨)」が必要になります。

アンカーの最大の役割は、昇りすぎた頭の血や疲労感を足元へ降ろすこと「グラウンディング」です。

頭をフル回転させる仕事の後は、五感をダイレクトに刺激する体験が効果的です。「粘土の冷たさや重みを感じる」「土や植物の匂いを嗅ぐ」「温かいお茶を味わう」「身体を動かす」といった物理的な感覚は、他者の物語に持っていかれそうになった意識を強力に「今、ここにある自分の身体」へ呼び戻してくれます。

誰かの支援やケアをしている時間は、意識が100%「相手」に向いています。アンカーとなる時間や趣味の場では、誰の評価もケアも必要なく、100%「自分の美意識や感覚」だけで満たされるため、擦り減った心が急速に充填されていきます。

プロとして深く寄り添い続けるためにも、意識的に強力な「アンカー」を日常の中に打ち込んでおくことが、心を健やかに保つ秘訣です。

人形制作という私のアンカー

私にとって欠かせないのが「粘土で人形を作る時間」です。

診察室での仕事は「言葉」や「他者の感情」という、目に見えない抽象的な世界と向き合う作業です。

一方で、粘土をこねたり、道具で少しずつ表面を削り出したりする作業は、「冷たさ」「重み」「立体」という100%手触りのある具象の世界です。

言葉の世界から完全に離れ、ただ無心で粘土のフォルムを削り出していると、自分自身の感覚が取り戻されていくのを感じます。

忙しい日々の中で「言葉や人間関係から離れて、自分の手と感覚だけに没頭できる場所(アンカー)」を持つことは、心をしなやかに保つ大きな支えになっています。

「人の話に引っ張られない」4つのコツ

普段の人間関係や仕事で「人の愚痴やネガティブな感情に引きずられやすい」と感じている方へ、今日から使えるちょっとしたコツをまとめました。

  1. 「生身の自分」ではなく「役割」に徹してみる

    ネガティブな感情をすべて「素の自分」で受け止めようとすると心が持ちません。「今は優しい聞き役を演じる時間」「仕事上の担当者」というように、一枚透明なスーツを着るイメージで役割に徹してみると、適度な距離感が保てます。

  2. 共感しながら「分析の目」と「長い目」を持つ

    「つらいんだね」と気持ちに寄り添うと同時に、「なぜ相手はこんなに困っているのだろう?」と客観的に分析する意識を持ってみてください。また、「人の感情や状況は必ず移り変わっていくものだ」と、一歩引いた長い目で回復や解決のプロセスを見守ると、相手の「今の激しい波」に一緒に飲み込まれにくくなります。

  3. 一人で抱え込まず「誰かに吐き出す(ピアサポート)」

    重い話を聞いた後は自分だけで消化しようとせず、信頼できる人に「こんな話を聞いてちょっと疲れちゃった」と短く共有しましょう。気持ちを分かち合える人に少し分けるだけで、心に毒素が溜まりにくくなります。

  4. 自分に戻れる「アンカー(錨)」を持つ

    人の話を聞いた後は、一呼吸置いて「自分だけの世界」に戻るルーティンを作りましょう。美味しいお茶を飲む、好きな音楽を聴く、手作業に没頭するなど、自分の感覚を地に足着け直す時間を持つことが、心のしなやかさを守ってくれます。

おわりに

誰かの気持ちに寄り添えるのは、とても優しい素敵な才能です。だからこそ、誰かのために心を使うときは「役割という防具」や「客観的な視点」を上手に使い、終わったら「誰かとの分かち合い」や「自分のための時間」で心をしっかり満たしてあげてくださいね。

茗荷谷こころのクリニック 03-5810-1611 ホームページ